ようこそ、「小さな絵本博」へ。ここは、慌ただしい日常から少しだけ離れ、あなた自身の「ココロの森」へと迷い込むための特別な空間です。子供の頃、無心でページをめくった絵本。しかし、大人になった今、その一枚一枚の絵、一行一行の言葉は、かつてとは違う響きをもって私たちの心に語りかけます。仕事、人間関係、そして自分自身との向き合い方。複雑な感情が渦巻く日々の中で、絵本は時に、自分でも気づかなかった心の奥底を映し出す鏡となります。
本展でご紹介するのは、単なる物語の作り手ではありません。彼らは、私たちの内なる風景を描き出す地図製作者のような存在です。エドワード・ゴーリーが紡ぐ美しくも不穏な世界、佐々木マキが描く孤独と自由の哲学、そして宮沢賢治の古典に新たな生命を吹き込むスズキコージの筆致。ひときわ深く鋭く、愛と存在とは何かを私たちの心に問いかける井上奈奈。彼らの作品を通じて、心の森の奥深くへと、静かな旅を始めましょう。
本展を旅する仲間たち
| 絵本名 | 作家(文) | 作家(絵) | 翻訳 |
| くままでのおさらい | 井上奈奈 | 井上奈奈 | |
| うさぎまでのおさらい | 井上奈奈 | 井上奈奈 | |
| ハリスバーディックの謎 | C・V・オールズバーグ | C・V・オールズバーグ | 村上春樹 |
| ウィローデールの手漕ぎ^_^車 | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| うろんな客 | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| 敬虔な幼子 | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| 思い出した訪問 | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| 青い煮凝り | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| 題のない本 | エドワード・ゴーリー | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| ジャンブリーズ | エドワード・リア | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| エリック | ショーン・タン | ショーン・タン | 岸本佐知子 |
| 悪いことをして罰が当たった子供たちの話 | ヒレア・べロック | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸 |
| ぶたのたね | 佐々木マキ | 佐々木マキ | |
| やっぱりおおかみ | 佐々木マキ | 佐々木マキ | |
| 注文の多い料理店 | 宮沢賢治 | スズキコージ | |
| エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談 | C. Dickens他 / ゴーリー編 | エドワード・ゴーリー | 柴田元幸他 |
愛と存在をめぐる深淵な問い:井上奈奈の『くままでのおさらい』
本展の旅の最初に、ひときわ深く、そして鋭く私たちの心に問いを投げかける一冊をご紹介します。作家・井上奈奈による『くままでのおさらい』です。
アーティストと、作品という建築

井上奈奈は、16歳で単身アメリカに渡り美術を学んだ経歴を持つ、国内外で高く評価されるアーティストです。彼女は自らの制作姿勢を「本を建築と捉える」と語ります。その言葉通り、『くままでのおさらい』は、物語の内容だけでなく、本そのものの物質的な存在感が、体験の重要な一部をなしています。
ひとつひとつ手製本で作られた特装版は、2018年にドイツで開催された「世界で最も美しい本コンクール」で銀賞を受賞するという快挙を成し遂げました。表紙は、お皿のくぼみを表現するために厚紙が重ねられ、タイトルは銀の箔押しで静かに輝きます。印刷には、孔版印刷の一種であるリソグラフが用いられ、黄、灰、朱の3色が重なりすぎないように計算された絵柄は、シルクスクリーンのような独特の風合いと温かみを生み出しています。この精緻な「造本」は、手に取る者に、これから特別な物語が始まるのだという予感を与えずにはおきません。(注:本展では、造本ではなく、印刷版を展示しています。)
愛の極北をめぐるおさらい
その美しい装丁に包まれた物語は、しかし、私たちを安易な感動には導いてくれません。物語は、一人の女の子が、愛するくまを深く理解したいと願い、くまを食べ、くまになるところから始まります。これは、他者を深く想うことで自分自身が変容していく、という共感の物語として読むことができます。愛する人の一部になりたい、という願いは、恋愛の根源的な欲求の一つかもしれません。
しかし、物語はそこで終わりません。くまになった女の子は、次に自分を愛してくれた恋人をも食べてしまうのです。この展開は、読者に衝撃を与えます。あるレビューでは、この主人公を「なかなかの肉食系女子」と評し、その行為を「究極の愛かもしれないけれど、次第にエスカレートしていく行為に、ちょっとたじろいでしまいました」と語っています。
ここに、この作品の恐ろしさと美しさの核心があります。愛する相手を理解したいという純粋な共感の果てにあるのが、相手を自分の中に「取り込んで」しまう=消費し、消滅させてしまう行為であるならば、共感と所有、自己犠牲と自己中心性の境界線はどこにあるのでしょうか。この絵本は、愛、食、哲学、倫理、民話、そして恋といった、いくつもの層を持つ多面的な問いを、読者に突きつけます。その美しく静謐な佇まいとは裏腹に、描かれているのは愛の最も過激で危険な領域です。この作品は、愛という感情が持つ抗いがたい魅力と、そのすぐ隣にある深淵を、静かに、しかし容赦なく見せてくれるのです。
うさぎまでのおさらい
『うさぎまでのおさらい』は、『くままでのおさらい』のスピンオフであり、現代に紡がれる「あたらしい寓話」です。物語の主人公であるうさぎは、人々の話に耳を傾けることを仕事としています。ある日、自分の心を失くしてしまった一人の女の子がうさぎのもとを訪れます。うさぎは、その「からっぽになったこころ」のために、自らの赤い目から涙を流し続けるのです 。
この物語は、「きみとわたしのさかいめはどこだろう」という根源的な問いを投げかけ 、自己と他者の境界、そして存在のあり方を深く見つめる「祈りのような物語」として展開されます 。うさぎの「聞く」という行為と「涙を流す」という献身的な姿は、他者との関係性や自己の内面を見つめ直す問いを提示します。
井上奈奈さんのことをもっと知りたい方にお勧めの記事 - 外部サイト
作家、井上奈奈。絵とともに暮らし、生きる(作家)
エドワード・ゴーリーの、美しくうろんな世界へ
本展の中心にいるのは、エドワード・ゴーリー。彼の名は、優雅な憂鬱と洗練された曖昧さの代名詞です。
不安と気品を紡ぐ絵本作家
エドワード・ゴーリー(1925-2000)は、単なる絵本作家という枠には収まらない、唯一無二のアーティストでした。アメリカ・シカゴに生まれ、ハーバード大学でフランス語を学んだ彼は、ニューヨークでブックデザインの仕事を手掛けながら、1953年に絵本作家としてデビューします。彼の人生は、その作品世界と同じくらい風変わりで、深い魅力に満ちています。ニューヨーク・シティ・バレエの公演はすべて鑑賞するほどの熱狂的なファンであり、小津安二郎の映画を愛し、『源氏物語』から名付けた猫たちと暮らし、生涯独身を貫きました。
彼の作品を特徴づけるのは、ヴィクトリア朝やエドワード朝のイギリス文学を思わせる、重厚で古風な世界観です。細いペンで執拗に引かれた無数の線(クロスハッチング)で描かれるモノクロームの絵は、静謐でありながらどこか不穏な空気を漂わせます。この厳格で抑制の効いた画風は、彼の描く物語の不条理さ、残酷さ、そして突飛さと奇妙な緊張関係を生み出します。整然とした形式の中に、混沌とした内容が閉じ込められている。この「ずれ」こそが、ゴーリー作品が放つ独特の—怖いけれど美しい—魅力の源泉なのです。
ゴーリーの才能は絵本だけに留まりませんでした。演劇のポスターや舞台美術、衣装デザインも手掛け、ブロードウェイのミュージカル『ドラキュラ』ではトニー賞の衣装デザイン賞を受賞するなど、多彩な分野で活躍しました。彼の人生そのものが、様々な文化を貪欲に吸収し、独自の美学へと昇華させるプロセスだったと言えるでしょう。この個人的な興味の広がりと、ある種偏執的なまでの美意識が、他に類を見ない「ゴーリー・ワールド」を構築しているのです。
説明のつかない訪問者たち
ゴーリーの世界では、理解不能な出来事が静かに、しかし確実に日常を侵食します。
うろんな客 (The Doubtful Guest)

風の強い冬の日、ある一家の館に、奇妙な生き物が現れます。ペンギンのようでもあり、スカーフを巻いた不思議なその客は、追い出されるでもなく、ごく自然に家族の一員として居座り始めます。皿の一部を食べようとしたり、本を破り捨てたり、意味の分からない行動で家族を困らせ続けるこの客。しかし、家族はただ困惑しながらも、彼との奇妙な共同生活を受け入れていきます。
この「うろんな客」は、強力なメタファーとして機能します。一説には、ゴーリーが子供を授かった友人への贈り物として描いたものであり、この客は「子供」そのものの寓話だとされています。大人の理屈が通じない、予測不能な行動で周囲を振り回しながらも、抗いがたい存在感を放ち、いつしか生活の中心になってしまう。子育ての経験がある人なら、この解釈に深く頷くかもしれません。また、発達障害を持つ子供のメタファーとして読み解く向きもあります。しかし、その解釈はさらに広げることができます。仕事、結婚、人間関係の変化—大人になると、私たちの人生には予期せぬ「客」が訪れます。それは時に厄介で、理解しがたいものですが、私たちはそれと共に生きていく術を学ばなくてはなりません。この物語の力は、17年経っても客が「一向にいなくなる気配はない」という、解決のない結末にあります。人生とは問題を解決することではなく、予期せぬものを自らの日常に織り込んでいく営みである、とゴーリーは静かに語りかけているようです。
この作品の日本での成功は、翻訳家・柴田元幸氏の功績抜きには語れません。ゴーリーの原文は軽快な韻を踏んだ詩ですが、柴田氏はこれを日本の伝統的な短歌(七五調)の形式に置き換えました。この大胆な試みは、原文の持つ「格調高い形式とシュールな内容のずれ」を見事に再現しています。また、原題の “Doubtful” が持つ「疑わしい」という現代的な意味ではなく、「奇妙な、正体の知れない」という古いニュアンスを汲み取り、「うろんな」という古風で絶妙な言葉を選んだことも、作品の雰囲気を決定づけました。
ウィローデールの手漕ぎ車 (The Willowdale Handcar)
この作品は、ゴーリー流の「人生の旅」を描いたものと言えるかもしれません。ゴーリー自身と彼の従妹をモデルにしたとされる3人の大人が、駅で見つけた手漕ぎ車に乗り、気ままな冒険に出ます。しかし、彼らが道中で目撃するのは、吊るされた赤ん坊や陸橋から転落した車など、脈絡のない不穏な光景ばかり。それらの出来事が何を意味するのか、一切説明はありません。そして物語は、3人がトンネルに入り、「向こう側から出てきませんでした」という一文で唐突に終わります。
ここには、起承転結のある物語は存在しません。人生とは、明確なプロットのあるドラマではなく、意味の分からない出来事の連続であり、私たちはただその風景の中を通り過ぎていくだけの存在なのかもしれない。そんな、ある種の諦念にも似た世界観が、淡々と、しかし鮮烈に描かれています。
意味なんて、なくたっていい。心が躍る、不思議な旅へ:エドワード・リア『ジャンブリーズ』
「ふるい」に乗って海へ旅に出た、不思議な生き物「ジャンブリーズ」。彼らの頭は緑色で、手は青色。目的地も持たず、ただひたすらに、奇妙で美しい世界を巡ります。
ヴィクトリア朝時代の詩人エドワード・リアによるナンセンスな言葉遊びは、名翻訳家・柴田元幸さんの手によって、心地よいリズムの日本語になりました。そして、その詩に寄り添うのは、エドワード・ゴーリーの描く、緻密で、どこか物憂げな線画。
理屈や効率から解放されて、頭を空っぽにしたい。そんな夜にぴったりのこの絵本は、意味を考えるのではなく、ただ言葉と絵の響きに身を任せることの心地よさを教えてくれます。あなたの心をふわりと軽くしてくれる、お守りのような一冊です。
“良い子”でいるのに疲れた、あなたへ:ヒレア・ベロック『悪いことをして罰が当たった子供たちの話』
嘘をついてライオンに食べられてしまう男の子、癇癪を起して燃え尽きてしまう女の子…。この絵本に登場するのは、そんな「悪いこと」をして、とんでもなく恐ろしい罰が当たった子供たちの物語。
よくある教訓話かと思いきや、そこにあるのは容赦のない残酷さと、思わずクスリと笑ってしまうブラックユーモア。ヒレア・ベロックのシニカルな文章と、エドワード・ゴーリーの描く、冷淡なまでに美しいイラストが、恐ろしくも魅力的な世界を作り出しています。
「こうあるべき」という社会の期待に応えようと、少しだけ窮屈さを感じているあなたへ。この絵本は、あなたの心に静かに潜む“悪い子”を、そっと肯定してくれるかもしれません。常識のベールを一枚剥がした先にある、人間の本質に触れるような、刺激的な読書体験をどうぞ。
ゴーリーの陳列棚を覗く
本展では、他にもゴーリーの多面的な魅力を伝える作品を展示しています。『敬虔な幼子』では、善良な子供が悲劇的な結末を迎えることで、道徳や信仰の不確かさを皮肉たっぷりに描き出します。『青い煮凝り』は、オペラへの愛が凝縮された、芸術と狂信をめぐる悲喜劇です。そして、ゴーリー自身が編纂した『エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談』は、彼がどのような物語に影響を受けてきたのかを知る手がかりとなり、創造者としてだけでなく、怪奇と幻想のキュレーターとしての一面を明らかにします。これらの作品群は、ゴーリーの世界が一貫して、理不尽な運命、ブラックユーモア、そして説明不能な謎に満ちていることを示しています。
魂をめぐる思索の旅:日本の巨匠たち
ゴーリーが描き出す世界と共鳴しながらも、独自の感性で「個」と「世界」の関係性を問い直す日本の作家たち。彼らの森は、より深く、静かな思索へと私たちを誘います。
佐々木マキ:孤独とナンセンスの詩人
佐々木マキ(1946年生まれ)は、アヴァンギャルドな漫画家、クールなイラストレーター、そしてキュートな絵本作家という多彩な顔を持つアーティストです。1966年に雑誌『ガロ』でデビューした彼の初期作品は、シュールで実験的、時に「アナーキーなナンセンス」と評される独特の世界観で、熱狂的なファンを生み出しました。
そのファンの筆頭が、作家の村上春樹です。高校生時代に『ガロ』で佐々木作品に出会って以来の愛読者であった村上は、デビュー作『風の歌を聴け』の単行本化にあたり、京都に住む佐々木のもとを自ら訪ね、表紙イラストを依頼しました。こうして生まれた初期三部作のアイコニックな表紙は、多くの読者にとって「村上春樹の世界」への入り口となり、佐々木マキの名を不動のものとしました。物語性の希薄な佐々木作品に、ストーリーテラーである村上が深く影響を受けたという事実は、佐々木マキの絵が持つ、言葉にならない思索の力を物語っています。彼の描く世界は、孤独の中に自由を見出す、クールな実存主義とも言え、それは村上文学の根底に流れるテーマと深く響き合っているのです。
やっぱりおおかみ

佐々木マキの絵本作家としてのデビュー作であり、彼の哲学が凝縮された傑作です。物語の主人公は、一匹だけ生き残ったオオカミの子。彼は「おれに にたこは いないかな」と仲間を探して街をさまよいます。しかし、ウサギの街でも、ブタの街でも、彼はただ怖がられ、避けられるだけ。そのたびにオオカミは、ただ一言「け」と呟きます。
この「け」という一言には、諦め、強がり、寂しさ、侮蔑といった、言葉にならない感情のスペクトルが込められています。表情が読み取れない黒い影として描かれたオオカミは、特定の誰かではなく、他者との間に壁を感じたことのあるすべての人のための器(うつわ)のようです。旅の末、オオカミは悟ります。「やっぱり おれは おおかみだもんな」「おおかみとして いきるしかないよ」。他者と同じになれない自分。そのどうしようもない事実を受け入れたとき、彼の心には「なんだかふしぎに ゆかいな きもち」が湧き上がってくるのです。
これは、孤独の肯定であり、自己受容の物語です。社会や他人に合わせて自分を偽るのではなく、自分自身のままであることを引き受けた時に得られる、静かで力強い解放感。無理に仲間を作らなくてもいい、自分は自分のままでいいのだと、この黒いオオカミはクールに教えてくれます。
ぶたのたね
『やっぱりおおかみ』が静かな内省の物語だとすれば、『ぶたのたね』は佐々木マキの「ナンセンス」が爆発した作品です。主人公は、なんとブタよりも足の遅いオオカミ。一度でいいからブタを食べてみたいという悲願を達成するため、彼はきつね博士から「ぶたのたね」をもらいます。これを植えると、木にブタが実るというのです。
この奇想天外な設定自体が、常識をひっくり返す面白さに満ちています。物語の中で、伝統的な「悪役」であるオオカミは、不器用でどこか憎めない、応援したくなる存在へと変わっていきます。努力は必ずしも報われず、世界は時に理不尽で、願いはそう簡単には叶わない。そんな人生の哀愁を、圧倒的なユーモアと軽やかさで描く本作は、子供には大爆笑を、大人には「こういうこと、あるよな」という苦笑まじりの共感を誘う、ブラックで哲学的な一冊です。
古典の再創造:『注文の多い料理店』

宮沢賢治によるこの有名な物語は、人間の傲慢さや自然への畏敬の念を欠いた態度を戒める、鋭い風刺に満ちた寓話です。しかし、本展で展示するスズキコージの絵によるバージョンは、この物語をまったく新しい次元へと引き上げています。
スズキコージの画風は、エネルギッシュで、土着的で、時に「狂気に満ちた」と評されるほど強烈な個性を放ちます。彼が描く『注文の多い料理店』では、その個性が遺憾なく発揮され、原作の持つ不気味さを何倍にも増幅させています。銅版画を思わせるタッチと、青と黒を基調とした色使いは、二人の紳士が迷い込んだ森を、出口のない心理的な迷宮のように描き出します。
スズキコージの絵は、単に物語を説明する挿絵ではありません。それは物語の「心理的な増幅器」として機能します。扉に書かれた奇妙な「注文」に従ううちに、自分たちが獲物であったことに気づく紳士たちの恐怖。その過程が、スズキコージの歪んだパースやぎらつくような筆致によって、読者の肌感覚に直接訴えかけてくるのです。多くの読者が、この絵本を読んで「手に汗握る」「背筋が凍る」といった身体的な恐怖を感じるのはそのためです。これはもはや道徳的な寓話ではなく、自分が理解できないシステムによって捕食されるという、現代的な恐怖をも喚起する、第一級のサイコ・ホラーなのです。
現代の心象風景:繊細かつ鋭い視点で向き合う
最後に、現代を生きる私たちの世界に繊細かつ鋭い視点で向き合う作家たちの作品をご紹介します。
静かなる来訪者:ショーン・タンの『エリック』

オーストラリアの作家ショーン・タンが描く『エリック』は、静かで、しかし深く心に残る、優しさの物語です。我が家にやってきた交換留学生の「エリック」。彼は葉っぱのようにも見える、とても小さな不思議な生き物です。ホストファミリーは、彼を喜ばせようと様々な場所に連れて行きますが、エリックが興味を示すのは、道端の小石や空き缶のフタといった、誰も気に留めないような小さなものばかり 38。
家族は戸惑いますが、母親は「きっとお国柄ね」と、その違いを優しく受け止めます 38。この言葉は、異文化理解の本質を突いています。相手を自分の価値観で判断するのではなく、ただそのありのままを尊重すること。やがてエリックは静かに去っていきますが、彼が寝床にしていた戸棚には、彼が旅の途中で集めたガラクタで作られた、息をのむほど美しい植物のようなオブジェが残されていました。それは、彼なりの感謝とコミュニケーションの形だったのです。言葉や文化が違っても、あるいは同じであっても、本当のつながりとは、相手の世界を静かに見つめ、尊重することから生まれるのかもしれない。この小さな絵本は、そんな大切なことを思い出させてくれます。
物語の結末は、あなたの心の中に:C・V・オールズバーグ『ハリス・バーディックの謎』
ある日、一人の男が出版社に14枚の絵を持ち込みました。それぞれの絵には、短いキャプションが添えられています。男は「物語の続きは明日持ってくる」と言い残し、姿を消してしまいました。彼の名は、ハリス・バーディック。
この絵本にあるのは、その時に残された14枚の絵と、謎めいた言葉だけ。ページをめくるたびに現れるのは、美しくも奇妙で、どこか懐かしいモノクロームの世界。物語の始まりも終わりも描かれていません。
「正解」を求められることの多い毎日から少し離れて、この絵本の前で足を止めてみませんか?答えのない世界で想像力の翼を広げ、村上春樹の名訳があなただけの物語を紡ぎ出す。そんな贅沢な時間の旅へと誘ってくれる一冊です。
森を抜けて
「ココロの森」を巡る旅は、いかがでしたでしょうか。エドワード・ゴーリーの不条理な世界、佐々木マキの孤独なオオカミ、そして井上奈奈が問う愛の形。ここに展示された絵本たちは、明確な答えを与えてはくれません。むしろ、私たちの心に静かな波紋や、時には鋭い棘を残していくものばかりです。
しかし、それでいいのかもしれません。大切なのは、答えを見つけることではなく、問い続けること。この森で出会った物語や感情のかけらを、どうぞご自身の日常に持ち帰ってください。ページを閉じた後も続く、あなた自身の物語のために。この小さな展示会が、そのためのささやかな道しるべとなれば幸いです。


