Episode3『たおやかな絵本で、ココロの深呼吸』

Episode

日々を駆け抜ける中で、私たちの心はいつの間にか、たくさんの情報と喧騒に満たされています。仕事の責任、人間関係、未来への期待と不安。常に動き続ける思考を、ほんの少しだけ休ませてあげたい。この展示会は、そんなあなたのための静かな sanctuary(聖域)です。ここに集められたのは、ただ物語を語るだけではない、私たちの心の奥深くにそっと寄り添い、深い呼吸を取り戻させてくれる絵本たち。

本展のテーマである「たおやか」とは、単なる優しさや弱さではありません。それは、静けさの中に宿るしなやかな強さ、そして物事の本質を見つめる澄んだ眼差しです。ページをめくるごとに現れるミニマルな線、選び抜かれた言葉、そして豊かな余白。それらは、私たち自身の内なる声に耳を澄ますための時間を与えてくれます。子供のためだけではない、今を生きる大人のための鏡であり、思索の伴走者となる絵本の世界へ、ようこそ。扉を開けて、心の深呼吸を始めましょう。

静寂と哲学の紡ぎ手:M.B. ゴフステイン

M.B. ゴフステイン(Marilyn Brooke Goffstein, 1940-2017)は、静かな信念の芸術家です。アメリカ・ミネソタ州に生まれた彼女の作品は、ミニマリズムとエレガンスを特徴とし、極限まで削ぎ落されたシンプルな線と、詩のように響く短い言葉で構成されています。彼女は商業的な成功や流行を追うことなく、「自分にしか作れないもの」の価値を信じ、深くパーソナルな作品を生涯にわたって創造し続けました。情報が氾濫する現代において、彼女の作品は、騒音に対する静かな解毒剤のように、私たちに本質的なものだけを見つめる時間を提供してくれます。

おばあちゃんのはこぶね

90歳のおばあさんが、幼い頃に父が作ってくれた木製のノアの方舟を眺めながら、自らの人生を振り返る物語です。子供時代、結婚、子育て、そして大切な人々との別れ。その長い年月の記憶が、この小さな方舟には詰まっています。ゴフステインは、壮大な人生の物語を、驚くほど静かで穏やかな筆致で描き出します。

この絵本は、時間と記憶についての深遠な瞑想録と言えるでしょう。特に心に残るのは、「よろこびとかなしみは にじのよう」という一節です。人生の美しさは、幸福な瞬間だけでなく、その経験の全スペクトルの中にこそ見出されるのだという、成熟した「たおやか」な視点がここにあります。喜びも悲しみも、すべてが虹のように連なり、今の自分を温めてくれる太陽となる。この普遍的なメッセージは、日本を代表する詩人、谷川俊太郎氏による翻訳によって、さらにその詩情を深めています。言葉の力を知り尽くした二人の芸術家の魂が、時を超えて対話するような一冊です。

ねむたいひとたち

スリッパの片方に収まってしまうほど小さな「ねむたいひとたち」の一家が、眠りにつく前の静かな儀式の中に、この上ない幸福を見出す物語です。あくびをして、ココアを飲み、眠りの歌を口ずさむ。ただそれだけの時間が、かけがえのない宝物として描かれています。

生産性や効率が称賛されがちな現代社会において、この絵本は休息と静かな団欒を根本から肯定します。それは、大きな達成や成功の中ではなく、私たちの人生を支えるささやかで、分かち合う時間の中にこそ、深い満足があることを教えてくれるのです。多忙な日々を送る私たちにとって、これほど心安らぐ「おやすみ前の物語」はないかもしれません。

海のむこうで

本作は、子供時代の記憶、夢、そして想像力が溶け合う、5つのエピソードからなる幻想的な作品集です。木の人形を作るおじいさん、リスのお散歩、ソフィーのピクニック。それぞれの物語は、はっきりと繋がっているようで、繋がってはいません。ゴフステインは意図的にその関係性を曖昧にし、読者を明確な物語ではなく、夢の中を浮遊するような心地よい感覚へと誘います。

この絵本の日本語版翻訳を手がけたのは、女優の石田ゆり子氏です。その穏やかで思慮深い人柄で多くの人々から支持される彼女の存在は、この作品の持つ世界観と深く共鳴します。石田氏はあとがきで、ゴフステインの作品を「子供時代の永遠なる一瞬」を切り取ったものだと語ります。彼女の言葉は、この絵本が論理で理解するものではなく、直感で味わうべきパーソナルな体験であることを示唆しています。ゴフステインのミニマリズムは、単なるスタイルの選択ではなく、本質に光を当てるための、力強い集中の行為なのです。

私とお隣さん

新しい隣人と、秋から夏にかけて一年という時間をかけて、ゆっくりと友情を育んでいく静かな物語です。移ろいやすく、時に孤立しがちな現代社会において、真のつながりを築くことの美しさと挑戦が描かれています。すぐに結果を求めるのではなく、辛抱強く相手を観察し、時間をかけて育まれる関係性こそが最も意味深いものであると、この本は優しく語りかけます。

ゴフステインの作品は、日本の美意識に通底する、静けさや余白の美、そして季節の移ろいの中に情緒を見出す感性と深く響き合います。谷川俊太郎氏や石田ゆり子氏といった翻訳者の存在は、彼女の作品が文化を超えて私たちの心に届くための、重要な架け橋となっているのです。

欠けたままで、完璧な旅:シェル・シルヴァスタイン

シェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstein, 1930-1999)は、一つの肩書きに収まることのない、万能の才能を持った人物でした。雑誌『Playboy』の漫画家、グラミー賞を受賞したソングライター、詩人、そして劇作家。特定の場所に留まることなく、「自分のやり方で (my own way)」をモットーに自由な人生を送った彼の精神は、作品にも色濃く反映されています。彼の物語は哲学的で、風変わりで、そして単純なハッピーエンドを良しとしません。

大きな木

一本の木が、一人の少年を生涯にわたって愛し、りんごの実を、枝を、そして幹までも与え続け、最後には切り株だけになってしまう。このあまりにも有名な物語は、読む者の心によってその姿を変える、不思議な鏡のような作品です。ある人はこれを無償の愛の美しい寓話と読み解き、またある人は自己犠牲と搾取の悲しい物語と捉えるかもしれません。

翻訳を手がけた村上春樹氏が示唆するように、この物語に唯一の正解はありません。それは「読む人の心を映す自然の鏡」なのです。日々、与えることと受け取ることのバランスの中で揺れ動く私たちにとって、この絵本は深い内省を促します。愛とは何か、幸福とは何か。そして、愛と自己喪失の境界線はどこにあるのか。シルヴァスタインは答えを与える代わりに、私たち自身に問いを投げかけるのです。

ぼくを探しに / はぐれくん、大きなマルにであう

これら二冊の絵本は、自己とは何かという問いに対する、力強く、そして進化する対話篇です。

『ぼくを探しに』の主人公は、一片が欠けたまるい生きものです。「なにかが たりない」と感じ、自分にぴったり合うかけらを探す旅に出ます。旅の途中、彼はみみずと話したり、花の香りをかいだりと、不完全であるからこその喜びを味わいます。やがて完璧にフィットするかけらを見つけますが、完全な円になった途端、速く転がりすぎてしまい、旅のささやかな楽しみはすべて失われてしまいました。歌を歌うことさえできなくなった彼は、自らそのかけらを置き、再び欠けたままの旅を続けることを選びます。

一方、『はぐれくん、大きなマルにであう』では、ピザの一切れのような「はぐれくん」が、誰かに拾われ、完全な存在にしてもらうのを待っています。そこへ、完全な円である「おおきなマル」が現れ、誰かに頼るのではなく、自分自身の力で転がってみることを勧めます。最初は不可能に思えましたが、もがき、角をぶつけ、少しずつ進むうちに、はぐれくんの鋭い角は丸みを帯び、やがて自力で転がれるようになります。

この二つの物語は、自己形成の時期を生きる若い世代にとって、完璧なメタファーとなります。『ぼくを探しに』は、「まだ何者でもない」という状態を祝福し、私たちの「欠けている部分」こそが人生を豊かにすると教えてくれます。そして『はぐれくん』は、より能動的な哲学を提示します。真の充足は、外から与えられるものではなく、困難で、時に痛みを伴う自己変革のプロセスを通じて、内から生まれるのだと。キャリアや人間関係において完璧さを求められがちな現代女性にとって、シルヴァスタインのメッセージは、不完全さを受け入れ、自分自身の力で成長していくことへの力強い肯定となるでしょう。これらの作品が、倉橋由美子氏や村上春樹氏といった日本文学を代表する作家によって翻訳されている事実は、その哲学的な深さの証左に他なりません。

生と死、そして愛を知ること:佐野洋子

佐野洋子(1938-2010)は、日本で最も愛され、そして最も率直な文学的声の一つです。彼女の代表作『100万回生きたねこ』の圧倒的な深さは、彼女自身の人生と切り離して語ることはできません。幼少期に三人の兄弟と父を失い、母との複雑な関係を抱えたその生涯は、彼女の作品に感傷を排した、本質を見つめる厳しい眼差しを与えました 。絵本作家としてだけでなく、『がんばりません』『シズコさん』といったエッセイで知られるように、彼女は常に人間の感情の機微を、時に痛烈なまでに正直な言葉で描き出したのです。

100万回生きたねこ

百万回死に、百万回生きた、とらねこがいました。王様のねこ、船乗りのねこ、どろぼうのねこ。どの飼い主も彼を深く愛しましたが、自分しか愛せないねこは、彼らのことも、死ぬことさえも何とも思っていませんでした。ところがある時、誰のものでもないのらねことして生きた彼は、一匹の美しい白いねこに出会い、初めて恋に落ちます。

彼は家族を持つ喜びを知り、自分よりも大切な存在を愛することを学びます。やがて時が経ち、愛する白いねこが静かに息を引き取った時、ねこは初めて心の底から泣きました。百万回泣き続けた後、彼もまた静かに死に、そして、もう二度と生き返ることはありませんでした。

この物語は、単なる愛の賛歌ではありません。それは、意味のある生とは何かを問う、深遠な探求です。ねこが百万回繰り返した生は、真のつながりを持たない人生の寓話です。自分だけのために生きる人生は、本当の意味では生きていないのかもしれない。佐野洋子は、意味とは、他者を無私に愛することによって見出されるのだと示唆します。そして、その愛は喜びだけをもたらすものではありません。愛するからこそ、彼は打ちのめされるような喪失の痛みを経験するのです。

彼の最後の、たった一度きりの人生が、百万回の生よりも価値があったのは、彼がそこで初めて「本当に感じた」からです。彼の最後の死は悲劇ではなく、美しい完結でした。もはや学ぶべきことは何もなく、輪廻の輪に戻る理由はどこにもなかったのです。この物語は、癒しとは痛みを避けることではなく、それを受け入れる勇気の中にこそあるのだと教えてくれます。真の強さとは、傷つくことを恐れない「たおやか」な心、すべてを感じる受容力の中に宿るのです。自分自身を大好きだったねこが、自分よりも大切な存在を見つけた時に初めて解放される物語は、自己愛から他者への愛へと向かうことこそが、最も深い充足をもたらすという時代を超えたメッセージを伝えています。

現代を生きる私たちへの処方箋:ヨシタケシンスケ

ヨシタケシンスケは、ありふれた日常の中に潜む深遠な真実を見出す、現代の達人です。彼の作品は、ユーモアと共感、そして哲学がヨシタケシンスケ的な形で融合し、現代社会の不安や不条理を、優しく洞察に満ちた視点で照らし出します。

にげてさがして

この絵本は、「逃げる」という行為を再定義します。辛く、有害な状況から逃げ出すことは、臆病さの表れではなく、自分自身を守るための勇敢で必要な行動なのだと説きます。そしてそれは、自分が本当に安らげる場所や人々を探すための、前向きな一歩なのだと。仕事や人間関係で息苦しさを感じている人にとって、この本は自分自身の幸福を最優先してよいのだという、力強い許可を与えてくれます。

まだおおどろぼうになっていないあなたへ

「大どろぼうになる」とは、私たちが大人になるにつれて失ってしまう大切なもの――自由、ユニークな視点、そして驚きや感動する心――を盗み返すことだと、この絵本は遊び心たっぷりに提案します。大人の責任という名の檻に窮屈さを感じている心に、日常の固定観念から喜びや自由の瞬間を「盗み出し」、世界を新たな目で見つめ直すことを whimsical に奨励する一冊です。

まてないの

おやつも、誕生日も、人生が始まるのも、とにかく待つことが苦手な女の子の一生を、ユーモアたっぷりに追いかけます。この物語は、時間に追われる現代人の焦燥感と、常に次を待ち望む私たちの姿を愛らしく映し出します。それは、未来に心を馳せながらも、今この瞬間を味わうことの大切さを、そっと気づかせてくれる優しいリマインダーです。

ヨシタケシンスケの作品は、ゴフステインやシルヴァスタイン、佐野洋子が描く普遍的で壮大なテーマを、現代の日常という具体的な言葉に翻訳してくれる、重要な架け橋の役割を果たしています。彼の作品は、哲学を実践的で、すぐに心に適用できる、現代人の魂への優しい「処方箋」なのです。

個性豊かな作家たちが描く、たおやかな時間

このセクションでは、さらに多様な作家たちが、本展のテーマをそれぞれのスタイルでどのように捉えているかをご紹介します。

言葉を超えた感情:ガブリエル・バンサン『アンジュール』

ベルギーの作家ガブリエル・バンサン(1928-2000)による、一切の文字を持たないこの傑作は、見る者の心を強く揺さぶります。車から投げ捨てられた一匹の犬が、絶望から希望を見出すまでの一日を、力強い鉛筆と木炭のデッサンのみで描き切っています 55。言葉がないからこそ、物語は私たちの理性を迂回し、心の最も柔らかい部分に直接語りかけます。ページをめくる私たちは、自らの感情を犬の姿に投影し、その孤独と喜びを追体験するのです。これこそが究極の「深呼吸」―純粋で、濃密な感情の体験です。

ふしぎで、あたたかい関係:村上春樹と佐々木マキ『羊男のクリスマス』、佐々木マキ『HUGS』

安らぎには様々な形があります。村上春樹の文と佐々木マキの絵による『羊男のクリスマス』は、村上作品特有のシュールで不思議な世界へと私たちを誘い、日常からの解放感を与えてくれます。一方、佐々木マキが文と絵を手がけた『HUGS』は、ラクダとシマウマ、ワニとペンギンといったありえない組み合わせの動物たちが、ただひたすらに抱きしめ合う姿を描きます。幻想的な冒険の中にも、そして最もシンプルな触れ合いの中にも、確かな慰めがあることを、この二冊は教えてくれます。

ふたりでいることの奇跡:甲斐みのり と 福田利之『ふたり』

「ひとりで生まれてきたのに いまは、ふたり」。この静かで詩的な一節は、誰かと共にいることの奇跡的な尊さを凝縮しています。夫婦、恋人、友人。その形は様々でも、誰かと人生の時間を重ね合わせるという、当たり前のようでいて、実は儚く、かけがえのない奇跡。この絵本は、「いつかはひとりにもどるのに」という真実を見つめるからこそ、「いまは、ふたり」でいるこの瞬間がどれほど愛おしいものかを、そっと心に刻んでくれます。

心の風景:福田利之『あのこのはね』、平岡瞳『ゆうぐれ』

これらの作品は、私たちの内と外の風景を美しく描き出します。福田利之の『あのこのはね』は、「やっていいことと、わるいこと」の間で揺れ動く、子供時代の複雑で移ろいやすい感情の風景を探求します。平岡瞳の『ゆうぐれ』は、温かみのある木版画で、夕暮れ時の町のノスタルジックな情景を捉えます。家路を急ぐ人々の姿は、誰もが心の奥に持つ「帰る場所」への郷愁を呼び覚まし、静かな安らぎを与えてくれるでしょう。

いのちの尊さを見つめて:井上奈奈『さいごのぞう』

この展示の締めくくりとして、井上奈奈の『さいごのぞう』は、静かな、しかし力強い問いを投げかけます。もし、この地球にぞうが最後の一頭だけになったとしたら。この物語は、私たちに地球規模での喪失を想像させ、今ここにある生命の尊さ、隣にいる人の温かさを、改めて見つめ直すきっかけを与えてくれます 73。個人的な「深呼吸」から、私たちが生きるこの世界全体への、より大きな慈しみの感覚へと、意識を広げてくれる一冊です。

結び:物語を連れて、明日へ

この展示会で出会った絵本たちを、どうか一時的な逃避場所としてではなく、小さく、持ち運べる知恵と視点の源として、あなたの日常に連れて帰ってください。ここで見つけた感情や気づきは、複雑な現実を生きるあなたの心の中で、静かなお守りのように輝き続けるでしょう。呼吸をすること、感じること、そして自分自身と世界の中に宿る「たおやか」な強さを慈しむことを、いつでも思い出させてくれるはずです。