Episode4「ミナトマチ横浜、多彩な世界への航海」

Episode

想像力の出航地

港は、船が広大な海へと旅立つ場所。そして一冊の絵本もまた、私たちをまだ見ぬ物語の世界へと誘う、小さな「港」なのかもしれません。ここ横浜を舞台に開かれる「小さな絵本博」Episode4は、ページをめくるごとに始まる新たな航海へと皆様をご案内します。

キャリアや人生という大海原を航行する私たちにとって、物語との出会いは、時に羅針盤となり、時に心を休める停泊地となります。この展示会では、横浜という街が持つ国際的な広がりと、地域に深く根差した温かさ、そして私たち自身の内なる探求という、三つの航海をご用意しました。さあ、錨を上げて、多彩な世界への旅に出かけましょう。


第1部 世界の港へ——外へと内へと向かう旅

横浜のアイデンティティは、常に世界へと開かれた港であることと分かちがたく結びついています。ここでは、海を越えた移住や文化交流、そして寄せては返す歴史の波に翻弄された物語を通して、この街の壮大な歴史と、そこに生きた人々の個人的な体験が交差する様を描き出します。

香港の港から届いた、優しい風:『ふなのりねこ チョイザイ』

香港のフェリー乗り場を舞台にしたこの物語は、港町が持つ独特の空気感を見事に捉えています。主人公は、人々の悩みや不満を集め、ミルク泡立て器で「海霧」に変えてしまう不思議な猫、チョイザイ。行き交う人々が、見ず知らずの猫だからこそ打ち明けられる日々の憂い——職場の人間関係、市場の不安、退屈な日常——は、チョイザイの静かな魔法によって、港を包む柔らかな霧へと昇華されます。

しかし、この物語に込められた「悩み」は、それだけではないのかもしれません。自由に発言することが難しくなった現代の香港で、人々が胸の内に秘めた声なき声、言葉にできない不安や喪失感。それらもまた、チョイザイが集める「憂い」の一部として、静かに霧の中へと溶けていく——そう読み解くこともできるでしょう。その意味でこの絵本は、かつて自由だった香港の記憶をとどめようとする、深く、そして静かなメッセージを湛えているとも言えます。

この絵本が横浜の展示会に並ぶことには、特別な意味が隠されています。作者のコニー・マオシャン氏は、ケンブリッジ大学大学院で児童文学を学んだ香港在住の絵本作家。彼女が描くもう一つの偉大なアジアの港町の物語を、日本の読者に届けたのは、横浜・山下で女性が一人で営む小さな出版社「くま書店」です。開港以来、横浜には香港をルーツに持つ人々も多く暮らしてきました。彼らにとって、この物語は遠い故郷へのノスタルジーを掻き立てると同時に、複雑な思いを映し出す鏡となるかもしれません。これは、国家間の壮大な文化交流とは異なる、現代的でパーソナルな「航海」と言えるでしょう。一人の書店主の情熱が、物語という一隻の船を香港から横浜へと導いたのです。それは、港町の日々を織りなす無数の小さな旅のように、ささやかでありながら、確かな文化の架橋となっています。

太平洋を挟んだ、二つの故郷:『GRANDFATHER’S JOURNEY』

コールデコット賞に輝いたこの名作は、一つの家族の歴史を通して、移住者が抱く心の機微を静かに、そして深く描き出します。物語は、作者アレン・セイ氏の祖父が、若き日に日本からアメリカへと旅立つところから始まります。彼は広大な大陸の自然と文化に魅了され、サンフランシスコで家庭を築きます。しかし、故郷への想いは募るばかり。やがて家族で日本へ帰国すると、今度はアメリカでの暮らしを懐かしむようになるのです。

この物語に込められた「どちらかの国にいると、もう一方の国が恋しくなる」という感情は、作者自身の人生と分かちがたく結びついています。アレン・セイ氏は1937年、横浜に生まれました。カリフォルニア生まれの日系アメリカ人の母と、イギリス家庭で育った韓国系の父を持つ彼の出自は、まさに横浜という街が象徴する文化の交差点そのものです。彼の人生は、第二次世界大戦を挟み、日本とアメリカを行き来する絶え間ない移動の連続でした。

『GRANDFATHER’S JOURNEY』は、単なる移住の物語ではありません。それは、開港以来、多くの人々を海外へ送り出し、また多くの外国人を受け入れてきた横浜の記憶そのものを体現しています。かつてこの港からは、1896年に開設されたシアトル航路をはじめ、戦後にはブラジルへと向かう航路など、新天地を夢見る多くの移民が旅立っていきました。複数の場所に自らの「故郷」を見出し、愛しさと切なさを同時に抱える感覚は、グローバル化された現代を生きる私たちにとっても、決して他人事ではないでしょう。この絵本は、横浜の地にもつながる「トランスナショナルな魂」の記録なのです。

国際交流の光と影:『赤い靴』と『青い目の人形』

横浜の物語を語る上で欠かせない二つの作品が、ここでは姉妹本として並びます。一つは、港の哀愁を象徴するあまりにも有名な童謡『赤い靴』。横浜の埠頭から異人さんに連れられていった少女の物語は、この街の神話として深く人々の心に刻まれています。山下公園の少女像や、今年20周年を迎えた周遊バス「あかいくつ」の名前にその名残をとどめ、今なお横浜の風景に溶け込んでいます。

もう一つは、歴史の波に翻弄された友情の証、『青い目の人形』です。この物語は、1927年に日米関係の悪化を憂いたアメリカ人宣教師シドニー・ギューリックや実業家・渋沢栄一らの尽力によって実現した、人形交流という史実に基づいています。平和への願いを込めてアメリカの子どもたちから日本の小学校へ贈られた1万2000体以上の人形たちは、しかし、太平洋戦争の勃発と共に「敵性人形」と見なされ、その多くが破壊されるという悲しい運命を辿りました。

この二つの物語を並べることで、横浜という港が目撃してきた国際関係の光と影が、より鮮明に浮かび上がります。『赤い靴』が個人の視点から描かれる感傷的な別れのフォークロアであるとすれば、『青い目の人形』は国家間の友好とその破綻という、より大きな歴史のうねりを伝えるドキュメンタリーです。

特に『青い目の人形』の絵を手掛けたのが、横浜をこよなく愛したイラストレーター、柳原良平氏である点は重要です。サントリーの「アンクルトリス」の生みの親として知られる彼は、40年以上横浜に暮らし、帆船日本丸の誘致や「みなとみらい21」の名付け親になるなど、街の文化形成に深く関わりました。その柳原氏が、忘れ去られかけた平和の使者たちの物語を、その温かい筆致で現代に蘇らせたのです。それは、港の歴史を見つめ続けた芸術家による、静かな追悼と記憶の継承の試みと言えるでしょう。


第2部 界隈の羅針盤——横浜の隠れた世界をめぐる

港の大きな物語から少し視点を移し、この街を構成する個性豊かな界隈へと舵を切ります。元町、野毛、石川町——。そこには、地域に根を下ろし、独自の文化を育む作り手たちの息遣いが聞こえてきます。彼らが紡ぐ物語は、私たちを日常の中に潜む小さな魔法の世界へと案内してくれるでしょう。

元町に香る、ささやかな魔法:『魔女の一日』

深い森の奥、古びた一軒家で暮らす魔女の丁寧な一日を追ったこの絵本は、「魔女」という存在を、恐ろしい魔法使いから、自然と共に生きる賢者へと描き直します。夜明け前に摘んだハーブを仕分けして薬を作り、木苺でジャムを煮込み、月の女神に祈りを捧げる。その姿は、現代社会で注目されるウェルネスやスローライフの思想とも重なります。

この物語の源泉は、横浜・元町に実在する一軒の店にあります。作者の飯島都陽子氏は、1985年から続くハーブと魔女グッズの専門店「グリーンサム」のオーナーです。彼女は、かつて「魔女」と呼ばれた女性たちが、薬草の知識で人々を癒す薬剤師や栄養士のような存在だったと語ります。絵本に描かれる暮らしは、まさに彼女が店を通して伝えたいフィロソフィーそのもの。物語は、元町の裏通りに佇む店の扉を開け、ハーブの香りが満ちる空間へと読者を誘う、魔法の招待状なのです。

絵を手掛けたのは、アニメーション作家として国際的に高く評価され、アカデミー賞にもノミネートされた山村浩二氏。彼の洗練されたイラストレーションは、この物語に静謐な芸術性をもたらし、大人の女性の感性にも響く一冊へと昇華させています。この本は、ファンタジーの世界が遠いどこかにあるのではなく、私たちの街の片隅、こだわりの専門店の中に息づいていることを教えてくれます。

街の心を歩く、匿名のヒーロー:『のげやまくんとくま』

横浜の街角に突如現れる、謎のキャラクター「のげやまくん」。作者不明のまま、市内の掲示板などにポスターが貼られるその活動から「横浜のバンクシー」とも称される彼は、野毛山動物園を応援するために生まれた非公式キャラクターです。

この絵本は、そんな街のアイドル・のげやまくんが、友達の「あーあくん」と一緒に、落とし物のくまのぬいぐるみ「えりちゃん」の持ち主を探して横浜の街を巡る心温まる物語。その旅路は、読者を横浜の日常風景へと優しく導きます。

この本を出版したのは、伊勢佐木町に拠点を置く小さな出版社「星羊社」。彼らは、横浜の酒場文化や歴史をディープに掘り下げる地域情報誌『はま太郎』などで知られ、観光ガイドには載らない、この街の「素顔」を発信し続ける存在です。ストリートアートから生まれたキャラクターを、地域密着の出版社が絵本にし、その売上の一部が地元の動物園に寄付される。この一連の流れは、行政主導ではない、市民の自発的な愛情によって街の文化が育まれていく、現代横浜の美しいエコシステムを象徴しています。この一冊は、単なる絵本ではなく、横浜の「非公式」な文化が生んだ、愛すべき成果物なのです。

石川町から発信する、多様性への贈り物:『クマヤマダさんおくりもの』

「みんなと同じができないあなたへ——」。この優しいメッセージから始まる『クマヤマダさんおくりもの』は、心を閉ざした女の子のもとに、ある日突然「くまやまださん」という不思議な存在がやってくる物語です。

作者の霜田りえこ氏は、横浜・石川町のひらがな商店街で、子どもたちにアートと英語を教える「アンイースタジオ」を運営しています。彼女の教育理念は「教えるのではなく、ガイドすること」。画一的な正解を押し付けるのではなく、「出た杭を伸ばす」ように、一人ひとりの個性を尊重し、自由な表現をアシストすることを大切にしています。この絵本は、まさにその教育哲学が物語の形になったものと言えるでしょう。

英語と日本語が併記されたバイリンガル仕様であることも、この本の重要な特徴です。それは、国際都市・横浜の日常を反映すると同時に、作者の教室が実践する、アートを通して自然に異文化に触れるという教育スタイルそのものです。石川町の一角にある小さな教室で育まれた、多様性を受け入れ、個性を祝福する温かな眼差し。この絵本は、その哲学を乗せて、より広い世界へと旅立つ一隻の船なのです。


第3部 未知なる自己へ——境界線を越えるアイデンティティの旅

最後の航海は、最も深く、そして普遍的なテーマへと向かいます。それは、国境や制度によって引かれた線の向こう側にある、「私」という存在そのものを問う旅。横浜中華街に生まれた一人の女性の人生を通して、私たちは「所属」とは何か、そして「故郷」とは何かを、改めて見つめ直すことになるでしょう。

国籍という名の羅針盤を持たずに:『にじいろのペンダント』と『無国籍と複数国籍』

『にじいろのペンダント』は、ララという一人の少女を通して、「無国籍」であることの困難と希望を描いた絵本です。学校の友達と同じように海外旅行に行けない、将来の夢を語ることにためらいを覚える。当たり前だと思っていた権利が、当たり前ではない人々の存在を、この物語は静かに伝えます。

この物語は、作者である陳天璽(ちん てんじ)氏自身の体験に基づいています。彼女は1971年、横浜中華街に生まれました。しかし翌年の日中国交正常化とそれに伴う日華断交という国際政治の激動の中で、生後間もなく、どの国にも属さない「無国籍者」となったのです。以来30年以上にわたり、彼女は国籍を持たないまま日本で暮らし、アイデンティティの葛藤や、海外渡航、就職における様々な障壁に直面しました。

その壮絶な経験は、彼女を無国籍問題研究の第一人者へと導きました。今回、絵本と共に展示される新書『無国籍と複数国籍』は、その研究の集大成です。グローバル化が進み、人々の移動が当たり前になった現代において、国籍の問題はもはや他人事ではないと彼女は説きます 42。そして、無国籍という状態を単に「なくすべき問題」として捉えるのではなく、「国籍がなくても尊厳をもって生きられる社会」を目指すべきではないかと、私たちに根源的な問いを投げかけるのです。

横浜中華街という、それ自体が複数の文化の狭間で独自のアイデンティティを築いてきた場所で生まれ育った陳氏の人生は、この展示会のテーマ「多彩な世界への航海」を最も深く体現しています。彼女の物語は、物理的な国境を越えるだけでなく、法や制度、そして私たちが無意識に抱いている「当たり前」という境界線を越えていく、最も困難で、最も尊い旅路の記録です。最終的に彼女が見出した「国籍よりも、家族や居場所こそが重要だ」という答えは、私たち一人ひとりの「帰る場所」とは何かを考えさせてくれる、力強いメッセージとなるでしょう。

書名 (Book Title)横浜の錨 (Yokohama Anchor Point)航海の種類 (Type of Voyage)羅針盤が示す先 (The Compass Points To…)
ふなのりねこ チョイザイ山下 (Yamashita)共感の航海 (A Voyage of Empathy)港町を結ぶ静かな絆と、文化を繋ぐ個人の情熱。
GRANDFATHER’S JOURNEY横浜港 (Port of Yokohama)世代を超える航海 (A Voyage Across Generations)二つの故郷を持つことの愛おしさと切なさ、そして複数の場所に「ホーム」を見出す心。
赤い靴 / 青い目の人形山下公園 / 港全体 (Yamashita Park / The Entire Port)歴史の航海 (A Voyage Through History)国際友好の希望、戦争の悲劇、そして記憶を未来へ繋ぐアートの役割。
魔女の一日元町 (Motomachi)日常の魔法への航海 (A Voyage into Everyday Magic)ありふれた暮らしの中に非凡なものを見出す喜びと、地域に根差した専門店の魅力。
のげやまくんとくま野毛山 (Nogeyama)地域愛の航海 (A Voyage of Community Love)市民の愛情が育む現代の神話と、愛する場所を支えるコミュニティの力。
クマヤマダさんおくりもの石川町 (Ishikacho)個性を見つける航海 (A Voyage to Individuality)「違い」を祝福し、多様性を受け入れる社会を育む教育の眼差し。
にじいろのペンダント / 無国籍と複数国籍中華街 (Chinatown)アイデンティティの航海 (A Voyage of Identity)あらゆる境界線を問い直し、真の「所属」が人の繋がりの中にあることを探求する旅。

物語の海に、錨を下ろして

世界へ、地域へ、そして自分自身の内面へ。横浜という港から出発した数々の航海は、いかがでしたでしょうか。ページをめくるたびに立ち現れる風景は、私たちに、この街が持つ豊かな物語の奥行きを教えてくれます。これらの絵本は、単なる物語ではありません。それは、私たちが暮らすこの街を、そして私たち自身を、新たな視点で見つめ直すための招待状です。この小さな絵本博での体験が、皆様の日常という航海の、新たな羅針盤となることを願ってやみません。